厳美渓と明治の文豪幸田露伴の紀行文

厳美渓と幸田露伴

紀行文 枕頭山水(ちんとうさんすい)について


幸田露伴
明治の文豪、露伴は彼の代表作「五重塔」を1892年(明治25年)に完成させ、その年の夏、東北一周の旅の折一関は厳美渓に立ち寄りました。

明治25年の夏は露伴25歳の時です。その頃より作家として文壇で活躍されていたのでしょうネ、一関の豪商「熊精」方に宿泊はそれを裏付けるものでしょう。
白髪で白髭を蓄えた人の良さそうな、おじいさんというイメージしかない私にとっては、若い二十代半ばで当地を訪れたとはホント以外でした。
本文を読み進めると一関駅に下り立った目的は西へ凡そ40km栗駒山への旅だったようです。
その理由は判りませんが、多分その当時は紀行作家とも言うわれていた彼なので、その取材に行きたかったのでしょう。
しかし、難所である須川の様子を地元の人から聞くにおよんで栗駒山行きを断念、 10km余りの近場の厳美渓を勧められ立ち寄ったようです。
その様子が紀行文「枕頭山水」易心後語(えきしんごご) 其四に書かれています。

紀行文 枕頭山水 易心後語を読むにあたって
昔の難しい漢字やカナは勝手に常用漢字や現代カナに置き換えましたが、 常用漢字以外の漢字では今も使われているものは、そのままに、あまり使われていないものは、独断で常用漢字に直しました。 仮名は歴史的仮名遣いで書かれているものも私の独断で現代仮名遣いに置き換えましたが、良く判読出来ない文字もありました。
それら御承知於きの上お読み下さい。なので引用の場合は原本の青空文庫のデータを利用し本文は参考程度に留めてくださいネ。

厳美渓について、文面からは賞賛する言葉や美辞麗句は少なく、逆に「渓橋の碑」 に記されている松崎復の撰文、日本三景の松島と厳美渓を対比させて評価させているのには、少々褒めすぎだろうと述べています。
その言葉からは紀行作家らしく、方々の観光地を見て来た率直な感想なのでしょう。
しかし地元で生まれたおいらとしては少々残念で嘘でも、もう少しヨイショして欲しかったのが正直な処です。
次の日、彼は平泉に向かいました。
その高舘の地では義経の山車のような木像にガッカリされたようです。 しかしその風景の「夢の跡」には共感されたのでしょう。
大島蓼太(りょうた)の「山そびえ河ながれたり秋の風」を口ずさんでいます。
(芭蕉について一言も触れていないのは何故カナ?)
そして盛岡へ。